旭橋みずほ通商店街振興組合は、旧第7師団に通じる道路として発展した街で明治20年代後半にはすでにまばらながら商店があった。 店舗裏には巨木が生い茂り、沼やヤチが多く畑がほんのわずかあるだけでタヌキやキツネが横行していたという。 しかし、旭川駅から第7師団の兵舎に通じる重要な道路であり、ご用商人をはじめ入隊除隊の記念品店 お土産店などが現在の国道40号線をはさんで徐々にその商店数も増え商店街としての発展をとげ現在のみずほ通り商店街の誕生となった訳です。
明治の厳しい環境下で先人達は、遠く北陸方面の出身者が多かったと聞いていますが現在も永々として同一業種を継続しながら今に至っている商店も少なくありません。旭川町近文1線1号を基点に地名がつけられ、駅から師団に至る道路には現在の商工会議所のところと旭橋と二つの木橋があり、荷車を引くにも大変苦労したという先輩の話もかすかな記憶として残っております。また、そのころマイナス40度という今では想像もつかない寒波もあり、当時の住宅事情から察してもかなり厳しい冬であったと思われます。
井戸水をくみ上げワラ靴を履き、店にはランプを灯し、寒中でも店の戸は何時でも開けっ放しで朝早くから夜遅くまで接客に精を出していた先人達の苦労話も過去のものとなりましたが、明治、大正、昭和、平成と約100年以上にわたるこの商店街の歴史は、また、多くの先人達の苦労の足跡でもあり我々が現在あるのもこの先輩諸氏の努力の賜物と心から敬意を表すとともに、今はなき多くの先人達に心から敬意を表する次第であります。しかし、時代の流れとともに、ロザシ屋、蹄鉄屋、刀屋、馬橇屋、提燈屋、サシモノ屋、馬具屋、ポンプ屋、曲物屋、カジ屋、ブリキ屋、軍服軍帽仕立て屋などの業種姿を消し、我々の熟年の方の間でも今は懐かしい思い出話のはしはしに稀にしか聞かれなくなりました。こんなことを思い浮かべながら子供のころにあった「突撃屋」・「高めし」という看板で多くの人々に親しまれていたお店のことなど忘れることの出来ない思い出のひとつです。
大正の不況時代、昭和初期特に戦時中の統制経済を経て戦後の混乱期を乗切り昭和25年頃ようやく商店街も落ち着きを取り戻しました。みずほ通りと名づけられたのは公募によって決まりました。
劇場ができ、結婚式などができる会館、それに銀行なども増え、遊技場などもできて従来の旭町・大町のお得意様はもとより、春光町、末広町、近文町、川端町、それに鷹栖、東鷹栖、比布方面のお客様も出入りするようになり、30年代の高度成長期とともに商店街も急速に発展してまいりました。昭和39年には振興組合を設立し、年表に記されている各種事業を行い今日にいたっております。
ごあいさつ
組合概要
組合名 | 旭橋みずほ通商店街振興組合 |
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所在地 | 〒070-0832 旭川市旭町2条3丁目 |
設立年月日 | 昭和39年(1964年)12月22日(登記) |
理事長 | 土井 邦由 |
組合員数 | 39名 |
組合組織図
主要イベント
6月 | 植栽事業 |
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8月 | 旭橋みずほ通商店街・北星市民委員会共催「北星みずほ七夕まつり」 青少年育成部 「ろーそくだーせ」 |
11月 | イルミネーション事業の名称を「ぶるーらいとMIZUHO〜あおみずほ〜」 |
旭橋みずほ通商店街と
旭川市のあゆみ
明治33年 | 旭川村が旭川になる。(8729人) 第7師団15000人移駐。 |
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明治37年 | 旭橋が木橋から鉄橋に3年かかって完成。 |
明治39年 | 鉄道馬車(馬鉄)が旭川駅から護国神社まで開通する。 |
大正11年 | 旭川区が旭川市になった。 |
大正14年 | 石狩川に新橋がかけられる。 |
昭和5年 | 電車開通 駅前から護国神社まで。(76541人) |
昭和7年 | 現在の旭橋が完成。工費103万8000余円。渡橋式の人手は3万人。 |
昭和27年 | 警察予備隊(現在の自衛隊)が移駐。 |
昭和31年 | 電車廃止。 |
昭和32年 | すずらん燈設置する。 |
昭和39年 | 昭和37年の振興組合法に基づき、みずほ通商店街振興組合を設立。(初代理事長に前田正宏氏が就任)北海道第二の人口25万人の都市になる。 |
昭和41年 | 旭川空港ができる。 |
昭和42年 | 2代目理事長に佐藤繁雄氏が就任。日本で一番北の動物園、旭山動物園開園。 |
昭和43年 | 地域への密着をめざし第1回盆おどり大会を共催。商店街の連携を深めるため、全市で初めての商店街運動会を実施。 |
昭和45年 | 歳末に消費者還元のため第1回ほかほかセールを実施する。お客様へのサービスを目的に全国で初めて商店街に面する歩道の除雪を除雪車ではじめました。 |
昭和47年 | 日本で初めての歩行者天国「買物公園」がオープンする。 |
昭和52年 | 改造計画を基づく核とし公設市場(みずほショッピングプラザ)に向けて農林水産省の近代化モデル事業の指定を受ける。 |
昭和54年 | 第1回みずほ七夕まつりを実施する。ニチイ出店を受けて、大学通商店街振興組合、大町住吉商店街振興組合、みずほ通商店街振興組合で三連協を設立し対策について協議を開始した。 |
昭和56年 | 商業近代化実施地区とし、みずほ通商店街振興組合、銀座通商店街振興組合、三和商店街振興組合とともに指定を受ける。7月ニチイがオープンする。 |
昭和57年 | 水銀燈を近代的に衣替え実施。 |
昭和59年 | スタルヒン球場ができる。 |
昭和60年 | 自由市場(フリーマーケット)を寿市場にて開催する。年4回(部長:土井邦由)空き店舗対策として実施する。 |
平成2年 | 旭川開基100年事業、北星オリンピックを北星市民委員会とともに企画共催する。道央自動車道が旭川まで開通する。(362596人) |
平成3年 | 旭橋から護国神社までの植樹(銀杏・ノルウェーカエデ)を完了する。石狩川に100年記念リベラインパーク旭川が完成する。 |
平成5年 | 商学連携による商店街事業を開始地域にある旭川教育大学のありんこクラブ(当時代表 渡邉 健司さん)と地域の子供達のためのイベントを実施。 |
平成24年 | 商店街名称を「旭川みずほ通商店街」から「旭橋みずほ通商店街」に改名。第1回イルミネーション事業をはじめる。 |
平成27年 | 旭橋みずほ通商店街が50周年をむかえる。 |
令和3年 | コロナ禍によりイルミネーション事業の名称を「ぶるーらいとMIZUHO〜あおみずほ〜」に変更して開催。 |